ノー残業デーなるもの

「あるにはあるが実質ないもの」という認識がまかり通るのはいやだ、
もうちょっと強引な雰囲気になってほしい。

 

今どうしたらいいかなぁと考えているところ。
①ノー残業デー該当日にはPC立ち上げ時にデスクトップをノー残業デー仕様に変えるよう設定
②定時になったら椅子が勝手に家路につく
③踊る

消灯とかアナウンスとかはさすがに反感買うと思うんだよな、できることなら定時に帰るのが(あるいは、帰っても)ハッピーだと自発的に思えるような感じにしたい。
「ノー残業デーとか言ってる場合か」という荒んだ職場はつらい。そりゃもちろんそんなことを言いたくなる日も数あるけれど。

理想としては電車の優先席みたいなノリにしたい。

 

先週のこと

先週の金曜日にコンタクトレンズを作りに行った。
小2で眼鏡を掛けはじめてから約15年間、目の中にレンズを入れるという選択肢を考えたことがなかった。別に眼鏡が好きだというのではなくて、単純に視力がないから掛けざるを得なかったし、そんでもって矯正するならなるべく安全な方法がよかったというだけのこと。
コンタクトは1時間で作れた。眼科のお姉さんが気さくな人だった。
身軽になれた気がして嬉しくなってラーメン屋に寄って帰った。

その日に眼鏡のフレームが壊れたので次の日新しいのと取り換えてもらった。
いつからこうなったのか忘れたけど移動中と食事中は眼鏡を外すのが癖になっていて、その間眼鏡は服のポケットに直で入れてたり、どっかに放り投げたりしている。
これがすぐ歪んだり折れたりする原因なんだろうか。
新しいフレームは前のよりべっ甲柄がガンガン出ていていい感じです。

 

金曜日に私が行ったラーメン屋はかつて東京でいちばん行列のできる店だったことを、月曜日に部長が教えてくれた。
「一人で行ったの?」「はい」「素敵」
「何グラム?」「並で450グラムです」「結構多いと思うんだけど、軽く食べられそうな顔してるよね」「おいしかったです」
という会話をした。

コンタクトレンズを付けていることに対して、いまだに当事者意識が薄くて、こんなにデカいふにゃふにゃしてる板みたいなものを目の中に入れるなんて生体医学的に狂ってるだろと思う。
まあいつかは何も考えずに装着できているようになっていると思うし、もしできなくても新しい眼鏡は気に入っているからそれでいい。
しばらくはぎゃーぎゃー喚きながらがんばってトライし続けるつもりです。

1・2月の浮世絵 - 太田記念美術館

いつものごとく3か月程前の出来事になってしまったので記憶が曖昧です。

 

 

 1. 富士山の浮世絵(2014.1.26)

f:id:neovillage:20140126154021j:plain

これ観終わってすぐの感想が「地味だったな・・・」というもので、だから今思い返してみたところで「地味だった」と再確認する作業しかできなさそう。
歌川広重葛飾北斎の二強だったかな。

 

風景画なので遠近法とか影の付け方とか、そういう画技に注目できた、いつもみたいにパッと見でわかる美しさだけじゃないものを観れたような気がした。

 

北斎の弟子に昇亭北寿という人がいて、いくつか展示されてたんだけど、まだ遠近法の焦点の当て方が未完成だった頃の画もあってなんだか衝撃を受けた。

「うおお!試行錯誤してる!」みたいな。いや当たり前なんだけど。技法を身につけきれていない画を観れたのは貴重だった。

 

富士山のある風景、という限定的なテーマなので、やっぱりどこかのタイミングで飽きてしまうのは仕方なかったのかも。
構図に関して、広重も北斎もバリエーションが豊富でめっちゃ考えてんだなとは思った。ただ広重は、遠近感を出したいがゆえに柱とか木の幹とかを手前に持ってきすぎて、視界の邪魔になってる作品が多いように感じた。もちろんわざとそうしてるんだと思うけど。

 

2.葛飾応為 吉原格子先之図―光と影の美 (2014.2.2)

f:id:neovillage:20140202153555j:plain

 これめっちゃよかった。
1.の展示と同様に光の当て方/影の付け方、という画技に注目した展示。

 

葛飾応為北斎の娘。天才。
展示タイトルはポスターの作品の名前で、初めにこれがばーんと展示してあった。
この作品は、吉原の屋敷にいる遊女たちを外から男性客が見に来ているところを描いたもの。物理的に考えれば、中央にいる男性(と子ども?)が持っている提灯の光で、そのすぐ近くにいる遊女の顔は本来見えるはず。けれどもあえて彼女の顔を明らかにしないことで、鑑賞者の想像をよりかき立てるような作品になっている。

はあ。めっちゃすごい。感動してほいほいこの画のクリアファイルを買いました。

この時のメモ読み返したら割といっぱい書き留めていた。文章にまとめるの面倒なのでてきとうにカテゴリに分けてそのまま載っけます。

◎応為絶賛

・応為は本当に才能あったんだと思う。観察眼と表現力と技術が備わっている

葛飾応為の作品は一点と、絵巻と、あとパネル展示だけだったけど、あれでも十分よかった
・大浮世絵展で初めて知ったけど、すごい人だったんだな、北斎Wikipediaで娘がいたっていうのは知ってた気がするけどすっかり忘れていた

 

◎花火

・花火大会の絵たくさんあったな、花火の描き方絵師によって全然違って面白い

・四代歌川豊国が他にどれだけ作品残してるか知らないけど、川崎帰の舟に乗る女性二人の絵は大胆で良かった

・歌川豊春の天満天神夜祭はファンタジーでいい感じだった
 画面中央に架かる橋には人がごった返していて、上には星が白い点で表現されてんの。あれはきれいだった。

 

◎雑感

・豊原国周の楽屋にいる歌舞伎役者の様子描いてるものも興味深かったな、そういう所も取材してるんだなって思った
 いわゆるバックステージみたいなところにも目を向けてると、ちょっと考えたらまぁあり得るなってわかるんだけど、目から鱗っぽい作品だった

・三代歌川豊国と月岡芳年の描く女性は本当に綺麗だ

・歌川芳幾の写真を模した絵はおもしろかった、今でも「写真の様な絵は描く必要あるのか?」とかいう議論あるから

・芳幾はあと歌舞伎役者のシルエットのやつだな。シルエットの映った障子にそのまま紙貼って描いてるやつ。笑っちゃった

 ・笑ったといえば歌川国芳日蓮の二作も面白かった。取り巻きが皆日蓮がもたらす現象に翻弄されている感じ
 芸人の団体芸リアクションみたいな感じね

・今月の展示は心震える作品が多かった、感動した

 

あっ、これ伝わりづらい。
これ載せてもどの画について述べてるのかは私自身しか分かりようがなくて不親切だな。今後はしない。

兎にも角にもこの展示はめっちゃ興奮しながら観れたので満足度高かった。たぶん光と影というテーマが捉えやすかった+絵柄が多様だった+派手な画が多かった からだと思う。

 

この二つの展示で、絵師は、題材を切り取る発想力と、それを実際に表現する技術力との両方が備わってるんだな、ということを感じた。
そこに辿り着くために、北寿のように何度も練習を積み重ねていたことも知れた。

はー。長くなった。

3月の展示は見逃してしまった。

 

大浮世絵展 - 江戸東京博物館 (2014.1.18)

f:id:neovillage:20140424202555j:plain

 

f:id:neovillage:20140424214422j:plain

f:id:neovillage:20140424214744j:plain

f:id:neovillage:20140424214621j:plain

f:id:neovillage:20140424215012j:plain

f:id:neovillage:20140424215159j:plain

f:id:neovillage:20140424215345j:plain

f:id:neovillage:20140424203023j:plain

※隣にいるのが通常売られているサイズ

 

ちなみに閲覧料は1200円だ。
勢いは大事。

メインの展示はと言えば、人が想定以上にとんでもなく多かった、でもそのおかげで一つ一つ細部までゆっくり観ることができて結果オーライという感じ。
渓斎英泉のベロ藍(という色料)オンリーの絵と、葛飾北斎の娘が描いた絵、それから一枚紙の両面に刷られたワケのわからない技術を駆使していた絵(ワケがわからなさすぎて誰が描いたのかすら思い出せない)が印象的だった。
北斎の娘については別の展示も行ったのでまた後日。

人が多かったので、他人の会話も耳に入ってきて、いろんな着眼点があんだなーと思いながら観れた。よかった。
北斎ベアブリックは家に来て3か月ほど経ちまして、今はDVDプレーヤーの上に悠然と鎮座していらっしゃいます。

 

2013年に観に行った展示 vol.2

続きです。

 

4.歌川広重「月に雁」―花鳥風月の美(太田記念美術館、2013.9.18)

f:id:neovillage:20130918155911j:plain

 ヤバいぐらい記憶がない。メモを見返すと

「掃き掃除 してから落る 椿かな 歌川広重
「時鳥」
とだけ書かれていた。上は普通に気に入った絵にあった俳句で、下はたぶん読めなかったから後で調べようとか思ったんだろう。馬鹿だな。
(と言いつつ今調べた。ホトトギスだった)
滋味深い作品ばかりだったな。

 

 

5.笑う浮世絵 ―戯画と国芳一門(太田記念美術館、2013.10.13)

f:id:neovillage:20131013145721j:plain

戯画、 風刺画、判じ絵(絵なぞなぞ)など、可笑しみのある作品展。
イデア自体やそれを表現できる画力などを総合してやっぱり歌川国芳の土壇場だったけど、広重とかもいろいろ描いていたっぽい。
華美なものに規制がかかっていた江戸時代を上手く切り抜き、大衆を味方につけた絵師たちの試行錯誤感も感じ取れて面白かった。

 

国芳の作品に「荷宝蔵壁のむだ書」という、一見どっかの壁のラクガキをそのまま写し取ったように見える作品がある。
それは役者の似顔絵をデフォルメしたもので、ちゃんとした絵画にはこんな風にふざけて描くなんて許されない。でもこれは”ある個人”が書いたたわいもないラクガキなんだから別にいいよね――という体で描かれている。
そして大衆はそれをそういうストーリーとしてメタ視点で楽しく見ることができる。たぶん国芳はそこの反応まで意図して描いたのだと思う。
浮世絵というものが大衆文化として浸透していたことの証明になる作品なんじゃないかなと思った。そして絵師もある種の計算のような、浮世絵が廃れないためのさまざまな工夫を試みていたことの。

 

 

 6.スヌーピー展(森アーツセンターギャラリー、2013.11.29) 

f:id:neovillage:20131129153141j:plain

浮世絵以外の展示も観に行こう第二弾。
スヌーピーの哲学が、というより谷川俊太郎の訳が好きで、漫画を買うために行った。
スヌーピーや彼を取り巻く登場人物たちの変遷と、作者の私生活と、それが作品に及ぼす影響などを読み取れるような流れの展示だった。
漫画二冊とマグカップを買いました。

 

 

2013年で書き留めていなかったのはこれで以上です。
書いてて毎回思うんだけど、感想、解説文の受け売りになってしまうのがイヤだなあ+見ているその瞬間瞬間ではそんなに難しいこと考えられないから、今このブログを書くときになってはじめて頭を整理する必要がある=時間が経つと細かい感想を忘れてしまってそれを隠して取り繕ったような文章になってしまう。あんまり素直な感想とは言えない。つらい。
まあ感想はすぐメモしておくことでそれを避けることができるんだから、芸術に関して無知なのは自覚しつつ、ちびちび審美眼を鍛えていきましょう…。

美術館は楽しい。2014年もいろいろ観に行こう。

 

 

2013年に観に行った展示

半年ぐらいブログを書かずにいたのは、面倒になったからではなくて、
5年目になったパソコンがもう使い物にならなくなっていたから。
写真読み込めなかったんだよ。つらかった。 

 

去年観に行ったものを掻い摘んで並べてみます。

 

1.花開く 江戸の園芸(江戸東京博物館、2013.7.30)f:id:neovillage:20130730142634j:plain

初日だったので平日なのに結構混んでいた。
浮世絵メインなんだけど実際に使われていた鉢とか、フラワーアート?菊人形?のようなものも展示されていた。
斑入りの葉を育てる技術は江戸で既に会得されていたっぽい。
鉢植え万年青の絵がシュールでよかった。鉢の模様がメキシカンな印象を受けた。
植物の絵は(当然と言えば当然なんだろうけど)写実的、絵師の観察眼はすごい。
菊の絵めっちゃよかった。国芳北斎
解説文の誤字脱字が多くてつらかった。

 

 

2.江戸の美男子 ―若衆・二枚目・伊達男(太田記念美術館、2013.8.3)

f:id:neovillage:20130803155014j:plain

粋、の一言に尽きる。
正直歌川国芳の描いた男達しか印象に残っていない。
着物の柄の描き込みようには毎回感心させられる。

 

 

3.American Pop Art (国立新美術館、2013.8.25)

f:id:neovillage:20130825143338j:plain

いきなり横文字でびっくりしましたか。
浮世絵以外の展示も観に行こうというやる気に満ち溢れていたので行きました。
「意味がわからない…意味がわからないよ…」と独り言ちながらまわったのを覚えています。それくらい難易度高かった。ポップって難しい。
アンディ・ウォーホルのマリリンモンローの絵も、「大量生産大量消費の大衆社会を揶揄した」という解説がなければ、「オシャレだな」という感想しか持てなかったと思う、それくらい私は普段物事の背景に思いを巡らせることがない。
最後にキャンベルスープを買って帰った。

 

まだ続きます。

 

 

1月16日

まさか久しぶりに書くブログの内容がこんなテーマになると思わなかった。

 

 

友人が亡くなった。
地元の高校で三年間同じクラスだった、めちゃくちゃ明るい女の子だった。
彼女は今月の11日で23歳になったばかりだった。

 

亡くなった当日に連絡がきて、それが昨日のことで、今なんの整理もつけられないままこの文章を書いているのは、本当はあまりすべきではないことのような気がする。
今LINEでは告別式の日程の通知が流れている。

 

 

私は彼女が病気に罹っていたことも、去年子どもが生まれたことも、知らなかった。
去年の夏、会った。
卒業して働いて結婚していたのは知っていた、会ったとき「結婚したんだって?」とみんなで笑いながら聞いたの覚えてる。
そうだ、その日私は就職活動中で、翌日最終面接を控えていて、元気づけてもらったんだった、
結局私はその面接に受かって、今こうして働いていて、でも就職が決まったことを、まだ連絡していない。またどこかで会う機会があるだろうと思っていた。

 

 

今日の朝、職場の先輩に子どもが生まれた、このことは全く関係無くって、
ただ自分がそういう環境に偶然いたということでしかないのに、どうにも、関連付けようとする思考が止まらなくて嫌になる。
彼女が、私の友人であった人が、いわゆる夭折という言葉でいなくなったのは、若くして結婚をしたのは、出産したのは、このときのためだったんだとか考え始めて、私には何の関係もないことなのにずうずうしいと思う。こういうのはめちゃくちゃ浅はかで恥ずかしい。

 

 

告別式には行けない。
高校で彼女のことを知らない人はいなかった、比喩ではない。
女子高生という一種の全能感を身にまとっていた時期に、彼女と仲良くなれたのはとてもよかった、
上京する時にもらった寄せ書きに彼女の名前があることが誇らしい。

 

 

私は弔いの仕方を知らない、ゆっくり休んでほしいとか言うとウソっぽく感じる、だってまだゆっくり休むような年じゃないし、そもそもそんな性格じゃない。
かと言って笑って送り出せもしない。

この文章だってただ自分が現実感を得るためだけに書いていて、彼女に捧げられるようなものではない。誰かに向けた教訓やメッセージがあるわけでもない。

 

私は彼女の死を悲しんでいい、どれくらいの関わりの程度からなら泣いてもいいのかとか、本当にアホみたいだ、悲しいと思ったら悲しいと表明してもいい。
反対に、私はこれからも変わりなく日常を過ごしていってもいい。
今はこれしかできない。後になってこれを消すことになったとしてもそれでいい。

書いていて涙が出たから目的は達成されたのだろう。何も考えられなくなってぼーっとしているよりマシだ。書いてよかった。