装飾は流転する 「今」と向き合う7つの方法 - 東京都庭園美術館、2/2

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東京都庭園美術館はちょうど1年振り。
去年は『並河靖之 七宝』で、あれは2017年で断トツに行ってよかったと思った展示だったので、東京都庭園美術館に寄せる期待値がとても高い。

 

そして今回は装飾がテーマ。われわれはなんのために装飾を施すのか?装飾品をみてなにを感じるか?
7名のアーティストによるそれぞれの作品群は、『装飾』の解釈もその表現手法もバラエティに富んでいて、全部の感想を記すのはむずかしいので、特に印象に残った2名について。

 

コア・ポア

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一見、ペルシャ絨毯をそのまま模した絵画なのかと思うが、

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よく見ると、浮世絵やエジプト壁画、ギリシャ神話など、さまざまな文化圏のモチーフを配置していることがわかる。
こんなところで浮世絵を見れると思わなかったのでうれしかった。

ごった煮のようでもひとつにまとまっている不思議な作品は、イラン人の父、イギリス人の母をもち、イギリスで生まれ育ったのちロサンゼルスに移住した彼という一人の人間をそのまま表すかのよう。

最初観たとき、ペルシャ絨毯を絵画に変換し、かつ古さを出すためにわざと削る、という作業をする意図がわからなかったのだけど、アーティストトークを見て、これらはコア・ポアが自身を表現するための工程なのだとわかった。装飾は、自分がしっくりくるために必要なもの。
「文化と文化の中間に存在する者として生きる」という言葉に親近感を覚えた。

 

ニンケ・コスター

彼女のトークもおもしろいので上記リンクから見てほしい。

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これはシリコーンゴムでつくられていて、さわると想像よりやわらかかった。座ったりすることもできる。


彼女はアートを身体に引き寄せて考えるのがうまくて、たとえば「立派な装飾が施されている王宮のあの天井に寝転んでみたい」という発想から、実際の天井にゴムを塗って型取りをして固めて、ほんとうにベッドのようなものをつくってしまう。装飾は、そこから想像力を掻き立てさせるもの。

写真の作品は、日本の出島が、日本とオランダの文化交流の架け橋となっていたことを表現したもの。
学芸員さんに解説していただいて、「へ~不思議ですね…」「ほんとうにね…」と言いながら、二人でぼよんぼよん触ってた。おもしろかった。

 

東京都庭園美術館は明治に朝香宮邸として建てられた旧邸宅で、フランスのアール・デコ様式を取り入れている。装飾が館内の細部まで現存されていて、今回の展示作品と、元々の館の装飾の境界線がたまにわからなくなった。おそらくそれを狙ったのかなとも思う。
つまり、館自体が装飾に意味を求めたひとつの「作品」なのではないか。
という考えに至ったところで頭がバーッとなり、一気に腹落ちした。なるほど、この美術館でないとできないテーマだったな…と。

 

「装飾」という言葉だけ見ると、どうしても表面的なものというイメージがあるけれど、今回の展示ではアーティストたちがそれぞれの解釈で装飾を内面化して、作品を創り上げているということが伝わった。
自分にとっての「装飾」は、なにかひとつ装飾を施す/身につけるごとに、自分の引き出しが一個開く、または自分を映すカメラがひとつ増える、みたいなイメージがある。なりきるとまではいかないけど、歩き方がちょっと変わるというか、演出装置のような意味合い。

 

ということで今回も高揚してとても満足した。新館の展示は七宝のときとはまた変わった感じで、美術館としてのいろんな顔を見れてよかった。
2階は小部屋が多くて探検している感じになるし、庭も広い。冬の時期の展示しか行ったことないから、夏以降にも行ってみたい。

 

地続き

 

 

 

4年間はあっという間に過ぎていった。

もう高校の友人たちと彼女の話をする機会も減ってしまって、そもそも当時も話題にあげるのがなんだか憚られて、だから彼女のことは、それぞれの胸のうちにしまったままだ。

わたしの中の彼女は最後に渋谷で会ったときの姿でとまったまま、いっしょに年をとれない。

 

私は彼女の死を悲しんでいい、どれくらいの関わりの程度からなら泣いてもいいのかとか、本当にアホみたいだ、悲しいと思ったら悲しいと表明してもいい。
反対に、私はこれからも変わりなく日常を過ごしていってもいい。
今はこれしかできない。後になってこれを消すことになったとしてもそれでいい。

1月16日 - ZAKKIES

訃報直後に書いた文。
本能的に、自己肯定が必要だと感じたのだろう。

 

他愛のない思い出をなんども頭に浮かべては、たのしかったななどとにやついたり、彼女が好きだと言っていた歌を聴いたり、これが「故人を偲ぶ」ということなんだろう、とさっき気づいた。

今さらな。なんども考えてるわりに、時間かかったよね。

 

現実は思い出と地続き。

 

雑記(SNS)

SNSについてなんかほぼ毎日考えていて、結局は「好きなようにやればいいし、好きなようにやらせてもらう」というところに落ち着くのに、好きなようにやってたって、すぐ嫌になって自分の中に逃げ帰ってしまう。


べつに悪いことではなく、こういう時間は大切で、テレビと同じように、嫌気が差したら消せばいい。
ただ、セーターの毛糸で肌がチクチクするような不快感を覚える発言を目にする頻度が多くなってしまって、でもなんでチクチクするかって、毛糸が悪いんじゃなくて、自分が敏感肌の季節に入ってしまっているからなんだよね。

 

わたしはバランスのとり方が極端で、嫌になったらすぐ端末からアプリを消してしまう。3,4日過ごせばまたSNSのある暮らしに戻れるけれど、それで思い悩むことが増えるのなら、永久にやめたらいいのにとも思う。でもSNSそのものが悪いのではなくて、SNS乃至そこにいる人との付き合い方がうまくできてないのであって、それはSNS上に限らず絶えずわたしの人生につきまとう問題であって、云々。

 

話の舞台をSNSに限定したのは、SNSが個々人の独立した発言から成り立ってるからだ。その場の空気というものがない。相手の表情が見えない。察する必要がない。 だから自由にポンポン発言できるんだけど、それゆえこんな風にメンヘラとディスの応酬が起こってしまうんだなあ。いろんな齟齬も生まれる。もう面倒だ。ここからいなくなってしまいたい。

やっぱりネット上でも思いやりは必要なんだよ。顔が見えないからこそ、その人の発言のみで、感情を汲み取る努力をある程度はしなきゃならない。その上で発言しないと。表現の自由は保障されるけど、人を傷つけていいということにはならない。

「SNSでのエセメンヘラ発言を許す」補充、拡張 - ZAKKIES

 

 
6年前、悩んで悩んで出したこの結論を実現できる未来はとうとう来なかった。


これ以上迷惑かけない

www.youtube.com

ぜ…………全員………………………優勝!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

今週はラブリーサマーちゃんと後藤真希のアルバムを交互に延々と聞いている。

 

ところで2017年12月は乃木坂46松村沙友理さんの月と言っても過言ではなかったですね、FNS歌謡祭のハレ晴レユカイみくるちゃんコス、ファーストソロ写真集発売、CanCamソロ表紙。 

松村沙友理さんへ。かわいいを続けてくれてありがとう。

CanCam買ったら2018年松村沙友理さんカレンダーがついてて、これでまた1年がんばって生き抜きたいと思います。2017年もプーチン大統領カレンダーがあったから生きてこれたわけだしカレンダーの存在意義は強い。

 

ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 - 東京都美術館、11/28

上野で同時開催している北斎ジャポニズム展と合わせて観ると、シンクロを感じられる。

 

ゴッホは日本に行くことのないまま生涯を終えたけど、日本のことが書かれた文献や浮世絵を収集することで日本への想いを募らせていたらしい。しかしゴッホが生きた当時の実際の日本では明治維新が起こり、憲法が制定されたときだったから、彼のイメージとはだいぶ乖離していたかもしれない。
明るい日本のイメージに基づいて、明るい雰囲気の南仏で描かれた絵は色調が明るい。精神的に安定してる様子がわかって、よかったねえと思うんだけど、このあとの彼の人生の行き先を思うと少しかなしい。

 

浮世絵を模写したものがたくさん出てくる。ただ写しとるのではなくて、気に入った日本的モチーフを並べてみたり、いつもの油絵の背景にしのばせてみたり。浮世絵が西洋文化に混ざり合っていく感覚はざらついているが、変に癖になる。違和感があるけど、不快ではない。

 

北斎ジャポニズム展と同様、この展示も見本となったであろう浮世絵のあとに、ゴッホの作品が飾られている。並べて観ると、ゴッホがいかに浮世絵から多くのことを学んで、その技術を自分のものにしていったか、の過程を知ることができる。

例えば目線の高さ。街の風景を描くとき、浮世絵師は少し高いところから街を見下ろすように描く。そうすることで画に奥行きが出てくる。ゴッホもそれを意識したのか、街の風景に限らず、例えば道端に咲いてる花とかなんでも、とりあえずしばらくは目線を高いところに設定して描いている。
彼のイメージする「日本」の雰囲気を作品として可視化できるようになるまで、そういう細かな表現方法に注目し、素直に取り入れていくさまを観れてよかった。

 

この展示の特筆すべきところは、ゴッホの絵に魅了された日本人が、彼を看取った医師ゴッシェのもとを訪ねていった、その交流の様子を紹介しているところだと思う。ゴッシェを訪ねた日本人の名前が記録されている芳名帳や、ゴッホへの想いが書かれた手紙など、保存状態がかなりいいままで残っている。
前田寛治という画家がゴッホの墓参りに行って、「自分はゴッホの狂気に取り憑かれて、元に戻れなくなってしまいそうだ」と言いながら墓前に咲いていた赤い花を摘んで、それを自作の油絵の中に塗り込んだ、というエピソードがあって、なんか日本人らしい狂気の表現でいいなと思った。

 

あと気になったのは額縁かなあ。なんかやたら立派。小さい絵にもゴテゴテの額縁がつけられていたりして、これはどのタイミングではめ込まれるものなんだろうかと不思議に思った。作成完了時に画家自身が選ぶものなのか、絵の社会的評価がなされたあとにしかるべき第三者が選ぶものなのか…。
『蝶の舞う庭の片隅』の額縁が絵の内容とマッチしていて好きだった。

 

物販コーナーの気合がすごくて、ゴッホ美術館のグッズとかもあった。ルービックキューブはそれ。
ポストカードにある『花咲くアーモンドの木の枝』は展示されていない。これ生で一目観たいと思ってるのだが、なかなか出会えないな…。

 

うーん鑑賞から日が経つと、メモで感想を書き留めていてもそれをブログでまとめようとする熱がどうしても薄まってしまう。 鑑賞とその記録は趣味でやっていることだから、どうせやるなら精度を上げていきたい。

 

北斎とジャポニスム - 国立西洋美術館

hokusai-japonisme.jp

国立西洋美術館、ふだん浮世絵しか観ない人間なのであんまり入ったことなかった。

 

浮世絵が西洋に渡ったのは、美術品を輸出するときに緩衝材や包み紙として使用されてたからなんだけど、それが西洋画家たちの目に留まって西洋画に新しい風を吹かせるまでに影響を与えたのですごいね、みたいな話。
中でも葛飾北斎の画がとりわけ作品も多く、かつそのクオリティもすばらしかったので、収集されまくったらしい。

 

展示、基本的に北斎の画+それを基に描かれた西洋画、の並びで見比べやすかった。
おもしろいなと思ったのは、元の画そっくりに描いても画材が違うので"洋物"とすぐわかるところ。キャンバスにインクとか油彩で描くと、おーそうなるんだな、という感じ。なんというかバージョン違いみたいな?まんまだね。

日本的なモチーフ(北斎漫画にある、動物や草花や着物を着ている人間など)をそのまま食器や花瓶の装飾に用いてるものもあって、そこらへんの彩色とか彫刻とか、立体的にアレンジする技術はさすがだった。
絵画では、たとえば布袋様が座ってリラックスしてる様子を少女に、相撲取りをバレリーナになど、対象を置き換えることで、浮世絵の技術を西洋画に違和感なく取り込んでいく工夫が見れた。

 

いちばんいいなーと思ったのは風景画。
それまでの西洋画は構図がガチガチにしばられていて、奥行きを出すことを念頭に置いてるから、対象物が手前で、その奥に山が連なってる、などどうしても構図はそのままで、ものの配置だけを変えるだけでしかバリエーションを出せなかったらしいんだけど
みどころ | 北斎とジャポニスム 
これのピサロを見てほしい。
えっ木をど真ん中に置いてもいいんだって感じじゃないですか?当時かなり衝撃があっただろうと思うんだけどどうなんでしょう。
「視界にあるものを、見たまま描く」というのは結構むずかしいことで、たとえば自分が花の写真を撮るとしたら、ぜったい向きを調整したりいい感じの光のとこまで持っていったりすると思う。
この木も絵にするんだったら省略してもいいところを、そうしないおおらかさ、みたいな浮世絵マインドが受け入れられたということなんだろう。

関連して、こういう手前に木とか橋を持ってくる手法は歌川広重もやっている。
東都名所 両国之宵月
上記の北斎と同じ時期の画。

 


いや最高よ。ほんとありがとう。音声ガイド買い取りたいぐらいだったわよ。
音声ガイドは解説にない小噺とか豆知識もあってよかったんだけど、さっさか観るタイプの人間にはちょっともどかしいところもあり…。つかそれ以前に耳が性感帯なので自分は付けたいと思ってももう無理かも。何言ってんの?

 


マグネットとチケットホルダーです。チケットホルダー買いすぎじゃない?もう4枚ぐらいあるよ大丈夫?チケットホルダーってどうやって使うの?

 

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秋晴れだね~

 

月岡芳年 妖怪百物語展・月百姿展 - 太田記念美術館 / お墓参り - 専福寺 

 

二か月連続特集。浮世絵師の中でいちばん好き…。迷わず行ってきた。
過去の展示でも鑑賞したことのある画がいくつかあったんだけど、何度観てもいいな…となる。
構図と色彩と刷りの技術がとにかくすばらしい。

妖怪百物語

イメージ的には「きゃりーぱみゅぱみゅのステージにいそう」と言えば伝わりやすいだろうか。

月岡芳年: 「和漢百物語」「貪欲ノ婆々」 - 演劇博物館デジタル - 浮世絵検索

かわいらしい。ほかにも屈強そうな武士を目にして自信をなくしているような鬼や、七福神を追い込んで余裕の表情を見せる貧窮神など、くすっと笑えるようなものが多かった。

鑑賞日当日は本調子でなかったらしく眠気がはんぱなくて、途中で2回ベンチ休憩をはさむことに…。 鑑賞行為は案外体力を使うのかもしれない。

 

月百姿

名の通りほんとに百枚ぴったりあり、すべて展示されていた。

月岡芳年: 「月百姿」 「嫦娥奔月」 - 東京都立図書館 - 浮世絵検索

個人的に好きな一枚。不老不死の薬を手に入れた嫦娥が、桃色の月を背に雲に乗って逃げていく様子。幻想的な構図と色彩。は~素晴らしい…。
このシリーズは晩年近く(明治時代突入済み)に制作されたため、芳年自身の絵画技術も最高点、また版元も当時最新の摺りの技術を施すという最高&最高の状態なのだった。江戸時代のイケイケな浮世絵とはまた異なる印象を受けた。まるで毛筆で描いたかのような繊細さ。

 

月百姿展の鑑賞後、銀座にて同展示の解説講座。レジュメが書き込みで真っ黒になった。普段からこんな風に熱心でいろよと思ったりもするが、いやあ好きなことしか学ぶ気おきないよね。

 

専福寺

そんで一夜明けて、芳年が眠るお墓まで散歩。東新宿にある(買った図録に書いてあった)。

猫が多くて、無類の猫好きである師匠の歌川国芳のことをちょっと思い出すなど。

 

そんなわけでどっぷり月岡芳年に浸かった二日間だった。
しあわせ。