1月16日

まさか久しぶりに書くブログの内容がこんなテーマになると思わなかった。

 

 

友人が亡くなった。
地元の高校で三年間同じクラスだった、めちゃくちゃ明るい女の子だった。
彼女は今月の11日で23歳になったばかりだった。

 

亡くなった当日に連絡がきて、それが昨日のことで、今なんの整理もつけられないままこの文章を書いているのは、本当はあまりすべきではないことのような気がする。
今LINEでは告別式の日程の通知が流れている。

 

 

私は彼女が病気に罹っていたことも、去年子どもが生まれたことも、知らなかった。
去年の夏、会った。
卒業して働いて結婚していたのは知っていた、会ったとき「結婚したんだって?」とみんなで笑いながら聞いたの覚えてる。
そうだ、その日私は就職活動中で、翌日最終面接を控えていて、元気づけてもらったんだった、
結局私はその面接に受かって、今こうして働いていて、でも就職が決まったことを、まだ連絡していない。またどこかで会う機会があるだろうと思っていた。

 

 

今日の朝、職場の先輩に子どもが生まれた、このことは全く関係無くって、
ただ自分がそういう環境に偶然いたということでしかないのに、どうにも、関連付けようとする思考が止まらなくて嫌になる。
彼女が、私の友人であった人が、いわゆる夭折という言葉でいなくなったのは、若くして結婚をしたのは、出産したのは、このときのためだったんだとか考え始めて、私には何の関係もないことなのにずうずうしいと思う。こういうのはめちゃくちゃ浅はかで恥ずかしい。

 

 

告別式には行けない。
高校で彼女のことを知らない人はいなかった、比喩ではない。
女子高生という一種の全能感を身にまとっていた時期に、彼女と仲良くなれたのはとてもよかった、
上京する時にもらった寄せ書きに彼女の名前があることが誇らしい。

 

 

私は弔いの仕方を知らない、ゆっくり休んでほしいとか言うとウソっぽく感じる、だってまだゆっくり休むような年じゃないし、そもそもそんな性格じゃない。
かと言って笑って送り出せもしない。

この文章だってただ自分が現実感を得るためだけに書いていて、彼女に捧げられるようなものではない。誰かに向けた教訓やメッセージがあるわけでもない。

 

私は彼女の死を悲しんでいい、どれくらいの関わりの程度からなら泣いてもいいのかとか、本当にアホみたいだ、悲しいと思ったら悲しいと表明してもいい。
反対に、私はこれからも変わりなく日常を過ごしていってもいい。
今はこれしかできない。後になってこれを消すことになったとしてもそれでいい。

書いていて涙が出たから目的は達成されたのだろう。何も考えられなくなってぼーっとしているよりマシだ。書いてよかった。