一か月の記録

前記事の通り、父が闘病の末亡くなった。癌だった。自分が見た父の様子。

3月後半 「父が歩けなくなったので、車椅子を買ってほしい」と母から連絡があり、Amazonで買って送る。
3月末 「やや危ない状態。まだ話しができるうちに一旦帰ってこい」との連絡。

4/21-24   帰省。思ってたより父が元気なので安堵する。ただ、足に水が溜まっていて歩きづらい様子。家の中のごく短い移動ならできる。量は少ないものの、同じ食事を食べる。訪問看護のスタッフが毎日来て、診療したりマッサージしたりしてくれる。スタッフに包帯の巻き方を教えてもらう。
この期間中に、延命治療の希望の有無を本人に確認した。


4/30  再び帰省。一週間で容態が悪くなっていて驚く。黄疸で皮膚がかなり黄色く見える。声も掠れ気味。
母が看病でやや疲れていたが自分にできることは相当少ないので、賑やかし役に徹することを決めた。
5/1  通院。できる治療はやり尽くしたため、最期を病院か家のどちらで迎えるか考えておくようにと言われる。とりあえず家に帰る。
5/2  地元の友人と遊ぶ。今思えばこのとき会っていてよかった…。

5/3  午前5時頃に母に呼ばれて飛び起きる。「腕のバンドエイドを剥がしたら血が止まらなくなった」とのこと。しばらくしたら落ち着いた。その後は家で過ごす。「肩を揉んでほしい」と言われたので揉んだが、骨張っていて筋肉が掴めなかった。
5/5  階段が登れないので、2階に上がる時は背中側を母が支え、私が前方から両脇を抱え上げて一段ずつ上がる。「力が強いね」と褒められる。
午後、洗った包帯にアイロンをかける。
夕方になっても
食欲が全然なく、半ば無理やり起こし、夕飯(豚肉の生姜焼き)をスプーンで口まで持っていく。食べ始めたら最後まで食べれる。新玉ねぎの味がわかっていた。食後、薬を飲むのを嫌がるが、なんとか飲ませる。

5/6  昼頃、多量出血。血圧低下のため、訪問看護スタッフの助言で救急車を呼び、母と同乗して病院へ。車内で父の氏名、生年月日を書いたが、揺れで文字が歪んだ。
失血死の恐れがあったため、緊急輸血。その間病院の待合室で説明を受け、輸血同意書、検査内容同意書に母がサインする。その他入院手続きの書類も記入。5時間くらいで手術が終わり、ICUに入る。ICUは面会禁止なので…と病院のiPadFaceTimeをする。ちょっとぼんやりした様子だったが意識はあった。
5/7  昼前に病院へ。午前中はICUにとどまっていたのでFaceTimeで父と話す。本人は余裕そうにふるまっていたが、主治医曰く「持って今週かな」とのこと。
午後、一般病棟に移る。食欲なし。足がむくんでいるので、空気圧でマッサージをする機械を足に着けていたが、「重い」と不満をこぼす。自力で動くことができないため、たまにマッサージしたり、姿勢を変えるのを手伝ったりした。石川県の地震のニュースを心配そうに見る。4時間ほど一緒に過ごし、夕方帰宅。握手をして病室を出る。これが最後の(意識がはっきりしている状態の)やり取りだった。

5/8に一時的に東京に戻る。9日は仕事。11日に沖縄に帰る予定だったが、10日に呼び出しがあり、フライトを早める。

5/10  午後6時半頃、空港から病院へ直行。呼吸はしていたものの意識混濁で、目を閉じたまま呻いている。呼びかけると呻きながら応えた気がしたので、かろうじて耳は聞こえていたのかもしれない。
9時頃帰宅したものの、11時半過ぎに呼び出され、再び病院へ。日付を越えてしばらくし、ゆっくり息を引き取った。


父は70歳に届かなかったが、胃をやったり心臓を悪くしたり、昔からよく体を壊していたので、癌が出現するまでむしろ長生きしたと思う。
ずっとヘビースモーカーで、禁煙を試みたことすらなく、とうとう最後まで辞めなかったが、肺癌ではなかった。まったく不思議だ。

斎場の霊安室にいる間、毎日腹の上に重いドライアイスを乗せていたが、父はもう不満を言わなかった。
骨上げのときにあの肩の骨を探したがわからなかった。
東京に戻る飛行機で雲の上を探しても父はいなかった。